2013年12月31日火曜日

祭りのあと3

今年も終わる。今年は音楽祭一色だった。11月3日以降は急に時間の流れが鈍くなり世の中の音が低くなったように、いや感じない。

2013年12月22日日曜日

冬至

湯船に湯を張り柚子を浮かべる。大家さんから庭に出来た柚子を分けていただいた。朝から湯に入り自然な光の中鳥の声を聞きながら柚子の香りを嗅ぐのは気分が良い。いただいた柚子は小ぶりで少し硬く、実家の湯船に浮いていた大きな柚子みたいにぐにゃぐにゃにならない。つい長湯した。これで風邪をひいたら不粋である。

2013年11月30日土曜日

遠近

本を読む中で気に入った響きの言葉や一文に出会うと曲が生まれる。ある文章に、遠近に「おちこち」と振り仮名がふってあって、響きが気に入ったのでそのイメージで一曲書いた。あれは確か川端康成。だいぶ経ってある日会話の中でその話になり説明すると、相手はその文章を読んでいて(非常にその文章に身近な人物)そんな言葉あったかな、と首を傾げた。その後気になって読み返すと遠近という言葉は出てきたが(それはそれで凄い)「おちこち」と振り仮名が添えられていない。何度か読み返したが出てこないので、その時期に読んだ本を思い返し調べると、夏目漱石の文章にそれはあった。当時何度も読んだ作品だ。遠近(おちこち)は夏目漱石で書かれ、いつしか川端康成の気分で奏でられていた。

2013年11月22日金曜日

祭りのあと2

事が始まった瞬間に気付くことがある。このイベントは長い。途方もないと途方に暮れた。時間とは平等なようで実際は人それぞれのフィーリングだ。僕はのんびりしている方だがさすがに三時間半はしんどい。マタイ受難曲なら別だが、と言いつつ通して聴いたことはありません。

祭りのあと1

人が何かに向かって何かをすることから生じるパワーというのは、途轍もない。本気で何かをやっている人と本気で何かを一緒にやったら想像もつかない事が起こった。これは一つの始まりだ。

2013年11月2日土曜日

高円寺北中音楽祭のこと23

街の鼓動、音の歩道。改めて考えてみる。

高円寺北中音楽祭のこと22

教室に近づくと例のフレーズが漏れてくる。吹奏楽との打ち合わせ。はっきり言って音程は良くない(西洋音楽の概念としての)が、音楽は良い。一生懸命なのだ。

高円寺北中音楽祭のこと21

落ち着くことが一番。そんなことをジョンケージが言っていた。多分。僕はそれをケージの言葉と信じて折に触れては落ち着いている。目の前に見える本番、視覚的に見えているような錯覚。落ち着けるか。

高円寺北中音楽祭のこと20

ルーリードが死んだ。僕の中の音楽の一つが生きている人の音楽から死んだ人の音楽に変わった。僕もいずれ死ぬだろう。だから「生きる」のだ。

高円寺北中音楽祭のこと19

「音楽の根源、すべての生物が持っている心臓の音=鼓動をあらためてかんじながら、この日だけの音の道を歩いてください。」これは主催者の狩野さんの言葉の断片である。音楽が儀式であったり、祈りであった、まだ芸術(広義の)という概念がなかった時代の音楽、人が本気になればいつでも戻れる場所、それは個々の問題で、押し付けるものではない。純粋に考える人だけが知る。

2013年11月1日金曜日

高円寺北中音楽祭のこと18

舞台となる北中通り商店街のために合奏曲『橋』を書き下ろしました。商店街のかつての地名「馬橋」の発音を含むメロディーを選りすぐりの、独自性を持った演奏者たちがそれぞれの解釈で奏でます。この音楽祭の音の全てが一つの楽曲と考えてください。
音は、増幅を必要最低限にするため、小さく感じるかも知れません。これは「聴く」という行為をしてもらうためで、「聴こえる」という受け身から脱する考えと、生活音とのバランスの配慮です。先ず人と街と音楽が一体になり、加えて色々な要素を巻き込んでいけば面白いと思います。
通り過ぎて行くのではなく、心に引っ掛かりぶら下がり続けるのが北中音楽祭です。

2013年10月30日水曜日

高円寺北中音楽祭のこと17

作曲に専念してから初めて自分の作品が他人によって演奏されるのを聴いた。約40人の高校生の吹奏楽部の演奏だ。その感動はあっけなく淡々と過ぎ去っていった(浸っている場合ではなかった)。頭の中で想像していたのとあまり変わらなかったので取り乱すこともなく、成程、と心の中で呟きながら確認した。僕が書いた旋律を高校生が自分の解釈で音にする。音楽とはこんなにも面白かったのか。これはまだ断片だ。

2013年10月29日火曜日

ルーリード

ルーリードが死んだ。ヴェルヴェッツは直ぐには好きになれずレコードをかけたり外で聴いているうちにゆっくりと好きになっていった。そういう音楽が僕の手元に残っている。僕はこの半年、いやそれ以上か、バッハの平均律クラヴィーア、ヴェルヴェッツの2nd、モンクのなにかを聴くくらいで、あまり他のレコードを聴いた記憶がない。パレルモシューティングは内容はほとんど覚えてないが良い映画だった。ルーリードが出演しているから観たけどどんな役だったかな?友人に散髪してもらう時は「ルーリードみたいに」と注文した。部屋の壁に立てかけてあるレコード、バッハのレコードの後ろに2nd、今チラッと見たら一番前はサティだった。詩人の彼を知らない。今知ってる彼が好きなのだ。

2013年10月26日土曜日

高円寺北中音楽祭のこと16

天候が気になる。でも天気の事を悪く言いたくない。当日は晴れるといいけど。

2013年10月22日火曜日

高円寺北中音楽祭のこと15

北中商店街東側入口にかつて架かっていた橋、それが「馬橋」だと思っていた。実際は馬橋村と高円寺村を分ける川に架かっていた橋、名もない橋だ。いや、名があったかもしれない。僕が書いた馬橋の響きを含むメロディーはこの橋に捧げる。

2013年10月19日土曜日

高円寺北中音楽祭のこと14

音楽祭というのはその場所で起こることが全て音楽なのだ。所謂音楽だけが音楽ではない。

2013年10月17日木曜日

高円寺北中音楽祭のこと13

テーマのメロディーを何回弾いただろうか。五拍子で二小節、初めは五拍子と六拍子の二小節だったのだが、歩くというテーマが入ってきたので一拍抜いてまとまりを出した。アイスランドの民謡は七拍子一小節がテーマだったような。四拍子は考えてみると意外と不自然である。

2013年10月15日火曜日

高円寺北中音楽祭のこと12

最終的に最初のアイデアの近くに着地する。もちろん経緯は無駄ではない。

北中音楽祭「街の鼓動×音の歩道」

2013年9月29日日曜日

高円寺北中音楽祭のこと11

鉛筆で線を引くのも音楽だ。

2013年9月16日月曜日

小バエ

台所に小バエが。チェロの弓の返しのような緩急のある動きを踏まえつつ、一つの空間を機械的に飛び回る。

2013年9月11日水曜日

友よ

友人たちはアホのままだ。面白いことを面白いと思い続け、正しいことを言い続ける。どうなっているんだ。

無題

わざわざ聴きたくなる音楽なんてヴェルベッツかモンクくらいのもんだな。後は作るだけ。そして五秒後には違うことを言ってる。

2013年9月8日日曜日

高円寺北中音楽祭のこと10

問題を残したまま次に進むことが出来ない。故に仕事が遅い。経験が足りないので走り回るしかないのだ。問題を乗り越えると作品が面白くなっていることもある。捻り出すからだろうか。

2013年9月5日木曜日

高円寺北中音楽祭のこと9

いけない、忘れていた。普遍といわれるものはあっても絶対ではない。なんと不可解な事の多いことよ。

2013年8月31日土曜日

高円寺北中音楽祭のこと8

音を聴くには聴くという行為が必要だと思う。そこで重要なのは音量である。音が大きければ人に届くという考えは安易だ。意思を持った大音量には共感するが、そんなものしばらく聴いていない。

2013年8月16日金曜日

円盤

高円寺は円盤、僕はたまにふらっと行ってビールを頼み店主と談話する。なので僕にとっては飲み屋だ。そんな円盤で久々に演奏することになった。お相手は「ペンと書物」という人たち、と思ったがどうやら一人らしい。9月5日は円盤にいます。

2013年8月7日水曜日

高円寺北中音楽祭のこと7

考える余白。押し付けるのではなく、置いておく感じ。

2013年7月30日火曜日

木目

ギターの木目は美しい。木目の美しさはギターに限らないが、ギターを弾いている故、ギターびいきである。棒アイスを食べ、骨となったアイスの棒を眺めると、木目に気を取られる。アイスを支えているだけの棒にこんなに美しい木目が。世界はそういうもので溢れている。

こんな時間に柿が落ちてくるなんて。庇は不意をつかれはっきりした音を立てる。柿はもう落ちる覚悟であった。万物は無限に運動し、そして静止している。時が流れているというのに静止という概念は成り立つのだろうか。こんな気持ちは刹那的で客観的にみれば興ざめものである、と庇はぼやく。

高円寺北中音楽祭のこと6

全ては導かれる。ありそうもないタイミングでありそうもない人と出会う。それは信念をもって立ち向かっている見返りかもしれない。役者は揃いつつある。しかし全く油断はできない。

2013年7月26日金曜日

高円寺北中音楽祭のこと5

一つの土地のことを考え続けることなどなかなかない。北中通り商栄会と音楽の交わりを考える内に僕の中で北中通りは隔離された神聖な場所になり踏み込むと特別な気分になる。

2013年7月19日金曜日

高円寺北中音楽祭のこと4

「馬橋盆踊り」のポスターはいかにも盆踊りだ。縁起でもないことを言うが、商店街に関する人たちが死者の様相で楽しそうに踊っているではないか。これは盆踊りのポスターだ。死者を供養する踊り、それが盆踊りらしい。かつて死はもっと身近なものだった。生まれるということに死は含まれている。盆に踊って死者と別れ自分が生きていることを確認すれば良いと思う。

2013年7月5日金曜日

父は週末になるとギターを弾いた。クラシックギターだ。バッハとタレガ(父はタルレガと発音した)をよく弾いていた。家には楽譜が山ほどあるが、いつも同じ曲を弾いていた。そして僕はギターを弾いている。クラシックギターを。バッハとタレガを。

2013年7月4日木曜日

高円寺北中音楽祭のこと3

音楽を担当することになった時、初めに、今は暗渠になっている北中通り商栄会の入り口に架かっていた馬橋(まばし)という橋の話になった。地名自体も馬橋だったらしい。馬橋という響きが印象に残っていて、テーマのメロディのヒントになった。
先日、コクテイルで買った本に橋にまつわる小さな章があった。「本来、橋はたんなる交通の建造物であることより、天上と地上とをむすぶ神の通路である。天の橋立のように。また水をへだてた異界へ霊魂が渡ってゆくものであった。」

2013年6月21日金曜日

高円寺北中音楽祭のこと2

日々作品を書き進めている。その瞬間の感情で気儘に書いて行くのは楽しい。オーケストラ作品だが、オーケストラたるものはという前提は無視している。それが正しいかが疑問だからだ。しかし先人の仕事は一途で感動的だ。それは無視できない。

2013年6月4日火曜日

ギター

ケースを閉め忘れ持ち上げるとクラシックギターはフローリングに落下、悲しい音をたてた。拾い上げると見事に表面の左下の部分が割れている。直ぐに工房に電話をかけた。これがひと月と少し前の事。
持って行ってから丁度ひと月経ったころ電話がかかってきた。とりあえず楽器の機能は元通りにした、しかし見た目を完全に治すには時間と金がかかる、音だけを重視するなら今のままでいいだろう、とのこと。今日は休みなので直ぐに取りに行きますと言って電話を切った。
帰ってきたギターは傷跡が生々しい。僕は一生このギターを弾き続けるような気がする。初めて自分のものになったような気分だ。

2013年6月3日月曜日

ゴミ置き場の絵

夜、家路を歩いていると近所のゴミ置き場に大量の絵が捨ててあった。5号くらいの小さいものから50号くらいの大型のものがビニール紐で5枚ずつくらいにまとめて縛ってあり、絵の面を下にして置かれている。どんな絵か見てみたくなり、ひと固まりを拾い上げひっくり返すとモノトーンで対象を単純化した無機質な静物画であった。近所の人が趣味で描いていてなんらかの理由で処分したのだろう。絵が捨てられているのを見るのはなんだか悲しい。次の日、そのゴミ置き場を通ると絵が少し減っていた。だれかが持って帰ったのだろう。絵の束を一つ拾い上げてひっくり返すと昨晩見たものと同じような作風だった。作者はこの作風に執着していたのだろうか。そしてまた次の日、絵はさらに減って残り数枚になっていた。近所の家々の壁にこの作者の絵が飾られていることを願う。

2013年5月24日金曜日

高円寺北中音楽祭のこと1

11月3日は文化の日、音楽を書く身としてはぼさっとしていられない特別な日だ。と言ったものの今年まで文化の日がいつかなんて知らなかった。今年、高円寺北中商店街にて音楽祭が開催されるのだが、その音楽監督を任されることになった。古本酒場コクテイルからのお誘いである。商店街路上にオーケストラのリード、ホーン、打楽器、店舗内に弦楽、ゲストミュージシャンを配置、来場者は歩きながら位置によって変化していく音楽を体感する、果たして。テーマは「街の鼓動×音の歩道」。

2013年5月11日土曜日

暗い夜明け

何となく口ずさんでいた曲はSOZOROの「暗い夜明け」だった。そのメロディは僕のまわりをうろついている。口ずさんでみたくなる、淀みのない素直なメロディなのだ。なんでもない、なんでもないのが聴き続けられる、歌い続けられる音楽なのだ。歌詞も手伝って回り続けるのだった。

2013年5月10日金曜日

Straight, No Chaser

スコッチ、バーボン、ラム。春も終わり、洋酒の季節だ。僕に和酒の季節が再び来るかは分からない。

2013年4月29日月曜日

画数

幼少時、漢和辞典を見るのが好きだった。漢字が好きなのではなく画数が多い漢字を見るのが楽しかったのだ。画数の多い漢字はいかにも強そうで押しても動かないような雰囲気を持っていた。最近ふと思い出し考えてみると画数が少ない漢字の方が堂々として見える。

2013年4月14日日曜日

Blues

ブルース好きの友人のアコースティックギターを弾かせてもらっていると中からカラカラと音がする。大体ピックが出てくるものだが、サウンドホールを下に向けて振ってみるとピーナッツが一つころんと出てきた。これは僕のブルース体験の中でも印象深いものだ。

2013年3月19日火曜日

昨日のまとめ

共にひっくり返るような絵画を観て、唯一と言っていい好きな映画を交換し、全く違う視点から同じ価値観を見出せる友人というのは、稀だ。僕は釣りをして、彼は潜って行くのだった。

2013年2月21日木曜日

酒に酔って書いた文章が今朝その辺に転がっていたので、早速処分して安心したから酒を飲んで文章を書く。酒は飲んで終わり、大して面白くないがついて回る。

2013年2月18日月曜日

これから

友人がスカイプしようと言ってくるときはニュースだ。内容は割愛するとして、全く次元の違う位置から引いた線がとんでもない確率で交わった、といった話だった。僕は会話と並行して、書かれていく物語を追うように読み進めているような錯覚に溺れた。主人公の一人は知人だ。この話は続いている。

カラックス

ある日友人が前触れなく貸してくれたカラックス、印象といえば主題曲のコダーイのチェロ無伴奏とポンヌフという響きだけだった。映画は当時の僕にはあまりにも長かった。スペイン旅行中、ピレネー山脈の西側からフランスに入り東に行ったところにあるトゥールーズにポンヌフ橋があった。記憶の片隅のカラックスが身を乗り出した(映画の舞台がパリだったことを最近知る)。それからカラックスは時たま姿を現すのだった。去年新作を発表した事を今年知り、とっくに上映終了していたのでDVDを買った。「ホーリー・モーターズ」、映画が観れる歳になったようだ。

2013年2月17日日曜日

ストライド

信号が点滅しそうなので走り出すとストライドという言葉が浮かぶ。そして大股で走る。先日届いた友人からのメールには”ライオン”スミスの映像のリンクが張ってあった。ストライド奏法の名手で、モンクに影響を与えた一人だ。ストライド、響きだけが独り歩きして咄嗟に現れる。ああ、”ライオン”スミスのストライドは行ったり来たりだった。

2013年2月10日日曜日

時計

家に帰ると時計の秒針が35秒の辺りで痙攣している。電池が切れて重力に負けているのだろう。電池を外してやった。3日ほど前の話だ。今も止まったままだ。

2013年1月17日木曜日

衝撃

今朝、人が空から降ってきたような振動で目が覚めた。原因は屋根の雪が庇に当たって起きた振動だと思われるが、定かではない。最近は物騒なニュースが目に付くので空から人が降ってきても非現実的とも思わない。屋根には雪が残っているだけだ。

2013年1月13日日曜日

ウォシュレット氏

我が家は築数十年のボロ貸家だが、トイレはウォシュレットで、センサーが察知して自動で蓋が開閉するフルオート便座機能というのが付いている。不気味なのでオフにする。しかし、便座は無言で開閉する。どうやらスイッチが効いていないらしい。

2013年1月9日水曜日

偏在的夢想的作曲

普遍的無意識的楽曲は普遍的無意識的状態に於いて鳴っている旋律を楽曲として起しただけの単純なものだが音楽の真理ではなかろうか。

2013年1月8日火曜日

シンプル

自転車で一時間強、京王多摩センター駅最寄りの多摩美術大学美術館に着く。昨今のネーミングセンスには首をかしげること然り。友人から教えてもらった佐藤慶次郎展に行ってきた。なんとなく聞いた名だな、と思って経歴を見ると実験工房に参加していた作曲家だった。楽譜が数点展示されていて興味を引いたが、オブジェには心を惹かれた。面白い事をただ面白いと思って形にした、というだけの作品。それ以上のものがあろうか。こんなににやけた展示はヴァッサー以来だろうか。そういえばこの展示を教えてくれた彼女はフンデルト・ヴァッサーという名に爆笑していたな。そのくらい単純なことだ。

2013年1月6日日曜日

日本

自転車で南下し多摩川に出ると、スペインのメリダのバス乗り場から街に向かう途中の川の周辺の風景を思い出す。ふと見上げると富士山、日本です。
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